東アジアにおけるファンカルチャー実践と政治参加(陳怡禎)
東アジアにおけるファンカルチャー実践と政治参加(陳怡禎)
【ファンカルチャーは“政治”の外にあるのか?】
本稿では、筆者は2014年より研究関心を持ってきたテーマのひとつである「ファンカルチャー」と「政治」との接点について考えていきたい。
一見、この2つのキーワードは互いに連想しにくいものだろう。実際に、日本の大学で教えている筆者は、関連授業の中、学生たちに上記の2つの概念の接点について考えてもらう際にも、ほとんどの学生は、最初は全くピンとこなかった様子だった。
学生たちの反応も、実は筆者の想定内である。なぜなら、我々は慣習的に、愛好対象へのファン実践を、個人的感情を満足させる極めて個人的・私的行為として捉えている一方、政治を個人ではなく、公共の利益のために行う公的実践だと認識しているからである。こうした意味では、我々にとって、「ファンカルチャー」と「政治」は、交わることのない両極端にある概念だろう。
東アジア社会では、ファン・アイデンティティ(中でも特に愛好対象がいわゆる“三次元”である場合)を持つ人々は、意識のあるなしにかかわらず、自らの愛好対象と「政治」との関わりに対して関心を示さず、むしろ嫌悪を示す傾向が見られる。例えば筆者の母国である台湾では、「政治は政治、エンターテインメントはエンターテイメント[1]」という言葉があるのだが、有名人がデモなどの政治活動に参加したり、特定の政党への支持する意思を表明したりすると、非難の標的になるような事態はしばしば起こっている。それは、ファンは、「日常生活で獲得した個人的感情(快楽)」と「非日常的な政治」を分割して考え、自らが愛好するファン対象を、特に意味もない私的快楽を獲得する“ユートピア”として捉え、その領域が“目的を持つ“大衆に踏み入られることに対し、抵抗感を持っているからだと考えられる。
これは東アジア社会特有の考え方ではないかもしれない。欧米のファン研究の文献では、ファンカルチャーと市民政治との接点に関連する研究蓄積がある。例えば、Henry Jenkins(2006=2021)は、「コンヴァージェンス・カルチャー」という概念を提唱し、ファンが能動的に様々なメディアプラットフォームを渡り歩き、旧来意味でのメディア産業の作り手と衝突・協働などの相互作用を行い、新しい文化を創出することに注目している。さらに、こうしたコンヴァージェンス・カルチャーに、Jenkinsは、これからの市民社会と民主主義を築く可能性を見出そうとしている。また、Jonathan Dean(2017)は、”Politicising fandom”という論文において、ファンダムと政治との関係性の理論化を試み、ファンダムが政治に介入した際に、ファンによる「生産と消費」「コミュニティ」「アフェクト」「異議申し立て」という4つの要素が働いていると指摘している。とはいえ、Melissa M. Brough and Sangita Shresthova(2012)は、共著論文である“Fandom meets activism: Rethinking civic and political participation”でも、ファンカルチャーに関する研究は近年では増え続けたが、「ファン・アクティビズム(Fan Activism)」と「市民参加(civic participation)」に着目する研究蓄積は、まだ少なかったと指摘しているように、ファンカルチャーと政治を結び付けて考察する研究がまだ初期段階に留まっていると言えるだろう。
しかしながら、この両者は果たして平行線のままだろうか。「ファンカルチャー」を用いる「政治」実践が実現可能だろうか。また、「ファンカルチャー」には政治性がみられるのだろうか。両者の接点を模索すべく、筆者は台湾をはじめとする中華圏国家・地域において行われている政治活動に注目し、東アジア諸国社会において、ファン対象に対して愛着を持つ「ファン」は、どのように日常生活の中に“楽しんでいる”諸ファン実践を政治の場に持ち込んで再現しているのかを主な研究テーマとした。
例えば、前述した台湾社会において、「政治は政治、エンターテイメントはエンターテインメント」という暗黙の了解は、実は2010年代後半以降に変化を見せ始めていた。中でも筆者がとりわけ注目しているのは、台湾の社会運動参加者による運動実践には、実際にさまざまなファンカルチャー実践が取り入れられている点である。具体的な分析は、「社会運動空間における『女性の遊び』–台湾ひまわり運動を事例に–」(『女子学研究10号』,2020,p.25-34.)「社会運動空間における女性参加者のあり方 ――台湾ひまわり運動を事例に」(『国際関係学部研究年報 41号』2021, p.43-53.)などの拙作を参照してほしいが、これらの論文の中に、筆者は、台湾社会運動の参加者(中でも女性参加者)はいかに、日常生活の中で実践しているファン文化を対抗の「戦術/戦略」として用いて、社会運動空間の中でコミュニケーションを行いながら、既成的社会権力に異議申し立てをしているのかを考察してきた。
ここで重要なのは、社会運動参加者たちは、明確なゴール/目的を意識して社会運動の場においてファン文化を実践しているわけではない点である。例えば、筆者は、女性運動参加者が、社会運動リーダーをアイドルに見立て、追っかけするなど諸アイドルファン実践を行ったり、日本発の腐女子文化を用い、運動リーダーに対するカップリング“妄想“を繰り広げ、楽しんでいたりしている現象に対して質的調査を行ったが、調査を受けた参加者たちは、さまざまな葛藤を抱えながらも「楽しいから(社会運動の場においてもアイドルや腐女子ファン文化の実践を優先させた)」と話してくれた。こうした回答から、彼女らは、ファンカルチャーを「(社会運動を成功させるための)手段」として、意図的に社会運動の場で実践しているのではないことがうかがえるだろう。その代わりに、彼女たちは、(さまざまな葛藤を乗り越えて)”あえて“非日常的な場である社会運動空間においても、自らの日常生活の中でそれぞれ楽しんでいるファン実践を再現することを通して、対抗・協働・折衝を行なっていた。
【ファンカルチャーが民主主義を推進するのか、権威主義に取り込まれるのか?】
これまで述べてきたように、筆者は、政治運動に参加する人々は、自らの日常生活の中に行なっているファンカルチャーを用いて、社会構造の権威に異議申し立てしたり、「政治」に多様な意味を付与したりしていることを研究してきた。
前述したように、今日のファン研究は、まだ「ひとつのファン対象をめぐる人々の諸活動」に焦点を当てるのが主流である一方で、まだ広く議論されていないものの、英語圏のファン研究に関連する論文の中では、「ファン・アクティビズム(Fan Activism)」が、いかに「ファン対象」のみならず、「政治」にまで影響や変革を与えているのかについて分析する研究(Jenkins 2012; Brough and Shresthova 2012; Acosta 2023 など)も一定の蓄積があった。
その一方で、東アジアにおけるファン研究は、「ファン–ファン対象」を問題意識の中心としているものが大多数を占めているなか、今までファンカルチャーと“無縁“とされてきた「政治」という要素との相互作用が注目され始めるようになったと言える。そのなか、筆者は中国のSNSプラットフォーム上で観察される「ファン・ナショナリズム(Fandom Nationalism)」(Liu 2018)という概念を取り上げて紹介したい。
近年では、中国のファンダムはひとつの巨大産業として世界中から注目を集めている。例えば、中国におけるKPOPアイドルのファン・コミュニティは、「中華バー」と呼ばれているが、これらのファン・コミュニティは、集金してアイドルに関連する商品を大量に購入したり、アイドルを“喜ばせる”ためにイベントを開催したり、投票を呼びかけてアイドルをランキング上位にさせたり、高額なプレゼントを贈ったりするなど、ファン対象であるアイドルの「成功」(ここでの「成功」とは、知名度、経済価値の上昇など全てを指す)のため、ファン同士の間では緊密な連帯を構築している。このような一致団結しているファン・コミュニティが、金銭、時間や労力の投入によるサポートなどの「可視化した消費」を通してファン対象への「愛情」を表現することは、中国のファンカルチャーの特徴のひとつだと言える。
また、こうした能動的にファンとしての主体性を示そうとする中国のファンの行動やファン・コミュニケーションには、実はもうひとつの特徴がうかがわれる。それは本稿で取り上げて紹介する「ファン・ナショナリズム」である。Jing Wu、Simin LiとHongzhe Wang(2018)は、インターネット上で活動している“ファン対象に愛情を注ぐファン”が、いかに愛国心が溢れる「Little Pink[2]」という新しい形のナショナリストになったかについて考察した。Wuらによれば、これまでのナショナリズムの構築方法と異なり、中国のネット世代が毎日の文化消費実践(例えば、アイドル消費)を通して政治的アイデンティティや愛国心を形成したと指摘している。さらに、Wuらの考察によれば、「男性中心」や「攻撃的な表現」といった特徴を持つ従来の愛国言説と比べ、「ファン・ナショナリズム」を主導するのは女性である。つまり、これまで「愛国」や「政治」の場面に見えなかった女性の存在が可視化されるようになった。さらに、こうした女性ファンが主導している「ファン・ナショナリズム」の表現が、ユーモア、遊び(Playfulness)に転換したという大きな変革が見られるという。
例えば、近年では中国のSNS空間上に、「ファン女子」という女性ファンのコミュニティが、ネット上でさまざまな「愛国萌え」行動(例えば、「中国」の擬人化キャラクターを創出してそのキャラクターを愛でる。また、そのキャラクターに愛着を持っているため、キャラクターが象徴する「中国」という政治体の「ライバル」に攻撃的な眼差しや言説を生み出すなど)を起こしている。さらに、それらの「愛国萌え」行動の様式[3]は、実際に彼女たちが日常から行われるファン実践と似たようなものである。そのため、「愛国萌え」のようなナショナリズムに基づく政治活動(ネット上の抗議デモなど)は、彼女たちにとって、日常的ファンカルチャー実践の延長線上にあるものだと考えられる。
ここで重要なのは、「ファン女子」は誰かに指示されてこうした愛国行動に出たのではなく、能動的に「ファン対象を愛するように“国”を愛する」ような“遊び”を実践しているという点である。つまり、彼女たちは、必ず権威者の意向に沿って行動するわけではなく、むしろ権威者とは一定の距離を取っている。実際にも、中国政府は、こうした能動的・情熱的なファンカルチャーを問題視し、これまで何度も規制をかけるような動きを見せ、ファンとは常に緊張関係を保っていると言える。
Henry Jenkinsは、参加型のファン文化が市民社会や民主主義を推進する大きな力と論じている。筆者も、台湾や香港の政治活動の場における参加者たちのファンカルチャー実践について考察し、政治活動に初めて参入している若者たちが、自らの日常的ファンカルチャーをそのまま「政治」の場に持ち込んだことで、「政治」そのものの定義を一元的なものから多元化したものに変容させたことについて議論を提起している。
その一方で、ファンカルチャーが政治と交差し、政治の局面を変える一方、我々が注意しなければならないのは、ファンカルチャーが権威主義に取り込まれてしまう危険性もなくはない点である。例えば、前述した中国における「ファン・ナショナリズム」の主導者は国家ではなく、ネットを主な活動拠点とする「ファン」である。さらにファンたちは、国家政策に必ず従うのではなく、常に権力構造と様々な交渉・対抗をしている。とはいえ、こうした「ファン・ナショナリズム」に基づく政治活動は、権力構造からの“誘導”がある際に、時に権力構造の枠内に取り込まれている問題点が生じる側面も看過できないだろう。実際にも、中国政府による指導のもとに設立された「中国共産主義青年団」という政治組織は、前述した「ファン女子」が作り出したファンカルチャーに積極的に関与していた。このジレンマについて、今後、筆者が「政治的局面におけるファンカルチャー実践」に関する考察を行う際にとくに注目していきたい課題である。
参考文献
Acosta Andrea, 2023, "#BlackOutBTS: Race and Self(ie)-Display in Digital Fandom." JCMS: Journal of Cinema and Media Studies, 62(3), p.11-33. Project MUSE.
Brough, Melissa & Shresthova, Sangita, 2012, “Fandom meets activism: Rethinking civic and political participation”, Transformative Works and Cultures.
Dean Jonathan, 2017, “Politicising fandom”, The British Journal of Politics and International Relations, 19(2), 408–424.
Jenkins Henry, 2006, Convergence Culture:Where Old and New Media Collide,NYU Press.(渡部宏樹, 北村紗衣, 阿部康人訳, 2021, 『コンヴァージェンス・カルチャー : ファンとメディアがつくる参加型文化』晶文社.)
Wu Jing, Li Simin, Wang Hongzhe, 2018, “From Fans to “Little Pink” The production and mobilization mechanism of national identity under new media commercial culture”, Liu Hailong ed. , From Cyber-Nationalism to Fandom Nationalism, Routledge.
[1] また、「政治は政治、芸術は芸術」という言葉も存在している。エンターテインメントにせよ、芸術にせよ、「ファン」は、それらの“ソフト”な領域に政治を持ち込むべきではないという“自戒”の念を強調していると言える。
[2] 「Little Pink」は、中国における1990年代以降生まれた、ネット上で「愛国」宣言や行動を繰り返している若いネット世代のことを指す。
[3] 例えば、「ファン女子」は、中国を擬人化したキャラクターに対する楽しみ方は、彼女たちが日常生活の中でのアイドルへの追っかけ方と似ていると見られる。