【転載】一億総「推し」社会を読み解くためのヒント『コンヴァージェンス・カルチャー』訳者座談会

 
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この記事は『Wezzy』に2021年3月5日に掲載された記事です。同ウェブサイトの閉鎖に伴いこちらに転載いたします。
「準備ができていようといまいと、私たちはすでにコンヴァージェンス文化の中で生きているのだ。」(『コンヴァージェンス・カルチャー:ファンとメディアがつくる参加型文化』(晶文社)本文より)
小説が映画となり、多数のグッズが作られ、ファンが各々に二次創作やコスプレを楽しむ。ときには意にそぐわない企業の方針に対して、ファンが働きかけを行っていく……いまとなっては珍しくない光景となった現象を「コンヴァージェンス・カルチャー」という。その提唱者であるファンダム研究の第一人者ヘンリー・ジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー』の邦訳が今年2月、晶文社より刊行された。
ファン研究だけでなく、歴史、マーケティング、そしてネット右翼まで、幅広い分野に援用できるという「コンヴァージェンス」とはどのような概念なのか。その魅力と可能性について語った訳者3名による座談会をお送りする。
阿部康人
東京都生まれ。南カリフォルニア大学アネンバーグ・スクール・ フォー・コミュニケーション・アンド・ジャーナリズムでPhD(コミュニケーション学)を取得。駒澤大学グローバル・メディア・ スタディーズ学部グローバル・メディア学科講師。 専門はコミュニケーション学とメディア学。 研究対象は放射線測定ネットワークと参加型文化。
北村紗衣
北海道士別市出身。東京大学で学士号・修士号取得後、キングズ・カレッジ・ロンドンでPhDを取得。武蔵大学人文学部英語英米文化学科准教授。専門はシェイクスピア・舞台芸術史・フェミニスト批評。
渡部宏樹
福岡県福岡市出身。東京大学で学士号、修士号を取得後、南カリフォルニア大学映画芸術研究科でPh. D.(映画・メディア研究)を取得。筑波大学人文社会系助教、エジプト日本科学技術大学客員助教。専門は表象文化論、映画・メディア研究など。
 

コンヴァージェンスとメディアミックス

――本書では、視聴者がオーディションに投票する「アメリカン・アイドル」や、パロディ動画やファンフィクションが多数つくられた「スター・ウォーズ」「ハリー・ポッター」など、多くのファンたちが活動した世界的ヒット作品が論じられています。映画・ゲーム・アニメで作品世界を広げようとした「マトリックス」の試みも読みどころです。
ポップカルチャーのもとに集まる人びとの動きが全編にわたって生き生きと描かれていますが、本書を貫く「コンヴァージェンス」という概念が、ひと言で説明しにくいなとは思っていました。「コンヴァージェンス」について、そして本の概要について、皆さんならどのようにお話しになりますか?
北村
私が学生に勧めるとしたら、自分が何かのファンだと思ったときに、ファンとして自分はどこにいて、何をしているのか、立ち位置を考えたいときに読む本だと話すと思います。どんな分野であれ、何かのファンに読んで欲しいですね。
渡部
多岐にわたる本なので本書を適切に要約するのは難しいのですが、北村さんがいつも言っている「良き市民、良き観客、良き消費者」という言葉に要約される本だと思います(【17世紀のオタクを研究】英文学×フェミニズム!東大卒研究者・北村紗衣先生を訪ねる)。
第一章や第二章では、ドラマや映画、アイドルなどのいわゆる「くだらない」話から始まるのですが、後半になるにつれて第五章で、ファンによる政治参加の可能性に話が展開されていく。作品をそれ自体として楽しむことも尊重しつつ、同時によりよい方向に向かうための回路を作ろうとしている本だと思うんですよね。
もともとコンヴァージェンスは著者のヘンリー・ジェンキンズが使用する前からある言葉です。最初に出てきたのは、1990年代にハリウッドやテレビ局などのメディア業界が合併、協力体制を作り、勢力図が変わったときだと思います。しかしジェンキンズはそういった現象を「コンヴァージェンス」と呼んでいるのではなく、その結果としてさまざまなメディア・プラットフォームでコンテンツが流通することやオーディエンスがブランドやテクノロジーに縛られない現象を指していると思うんです。
阿部
一言でまとめるのは難しい本ですよね。ただ共通しているのはドラマやアイドルなど「何か」に対するパッションというのがいろいろなところで活きているんだということを書いている本だと思います。
コンヴァージェンスというのは「言説」のようなふわっとしたものを示すのではなく、メディア業界の個々人やオーディエンスなどの実践に加えてメディアコンテンツの実態に注目しながら、それらがどのような形で作られ、結果としてどういった空間が生み出されているのかを説明する言葉なんだと思います。具体的にどういうものなのかを説明できたらいいと思うんですが……。
渡部
本書の中から例を挙げると、第五章「どうしてヘザーは書けるのか」が最も感動的でした。ここではヘザーという『ハリー・ポッター』ファンの女の子が創作した「日刊予言者新聞」が、ワーナーブラザーズから著作権を盾にした抑圧的な対応をとられたことが書かれています。しかしこうした対応に対して、彼女の活動が核になりワーナーブラザーズへの対抗運動が起きました。原作から映画になりファンによる創作が生まれることだけでなく、オーディエンスが自分が求める体験を求めて渡り歩いて行くという意味でも、コンヴァージェンス・カルチャーのポジティブな面が描かれているんですね。
北村
政治的な活動にならなくても、例えば『スター・ウォーズ』の映画を見た人が、ライトセーバーのおもちゃを買って、自分で作ったコスプレ衣装を着てイベントに参加し、その様子をブログにアップするのは、コンヴァージェンス・カルチャーですよね。ときには運営の方針に対して反対署名を行うなど、政治的運動になることもあるし、ならないこともある。こういう、メディアを超えてファンが積極的に体験を開拓していくのがコンヴァージェンスかなという気がしています。
「メディアミックス」と何が違うのか疑問に思う人もいると思います。違いを説明するのが難しいのですが、メディアミックスは、様々なメディアをまたいでコンテンツが作られる現象を表現するための言葉で、コンヴァージェンスは、ひとりのクリエーター、ひとりのファン、ひとつの企業を中心に、経験が広がっていく現象を説明する言葉なんだと思います。
渡部
日本のメディアミックスは企業側のコンヴァージェンスにのみ注目した言葉ですよね。逆に、例えばコミケは理念としては草の根のコンヴァージェンスであり、のちにメディアミックス戦略の対象ともなったのだと思います。
ファンが集まって同人誌を販売したりコスプレをするのはまさに草の根のコンヴァージェンスです。企業側は当然そうした動きを認知してマーケティング戦略をとったり、あるいは抑圧的な態度をとったりしてくる。さらに企業の圧力を回避するようなファンたちの動きが生まれ、それに対して企業が再び戦略を変える……コミケではコンヴァージェンスとメディアミックスが不断のプロセスとして続いているのだと思います。
 
ーーこの本、そしてヘンリー・ジェンキンズとの出会いを教えたいただきたいです。皆さんはアメリカでジェンキンズの授業を受けたことがあるんですよね。
渡部
私は映画やメディアを専門にしていますが、2011年にジェンキンズが勤めている南カリフォルニア大学に留学したときは、この本のこともジェンキンズのことも知りませんでした。たまたま授業を受けて「こういう人がいるんだ」って知ったんです。
北村さんが調査のためにカリフォルニアに来てジェンキンズの授業を受けたのも同じ時期でしたよね。
北村
そうですね。2011年か2012年だったと思います。
私は博士論文がもとになっている『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』(白水社)という著書を出しています。17~8世紀にたくさんのファンの女性たちがシェイクスピア劇を楽しみ、追っかけをしたり、批評文を書いたり、イベントを開催したりという、当時すでに熱を帯びていたファン活動の様子を描いたものです。
その本では『コンヴァージェンス・カルチャー』を参照しています。博論執筆時に読んで、これは翻訳されるべきだと思い、2012年にはブログにも書いています(「これは翻訳されるべき。Henry Jenkins, Convergence Culture」)。
阿部
私も2010年にやはり南カリフォルニア大学に留学したときに授業を受けて初めてジェンキンズのことを知りました(「ミート・ザ・ファキュリティー」)
私は「シビック・メディア」というジャーナリズムの授業を受けていたんです(「Civic Media: A Syllabus」)。私は南カリフォルニア大学に行く前はとある諜報機関に勤めていました。当時、外交に関心があったんです。一般的に外交って試験に通ったプロフェッショナルな人たちによって実践されるものと思われがちですが、民衆間での外交という考えもあるんですね。当時はメディアを介した外交プロセスへの市民参加について関心をもっていたこともあって、この授業を取ったんです。
その後、福島原発事故が起きた際に市民ひとりひとりが放射線測定器を用いながらインターネットでデータを共有してみんなで情報を共有する姿にインパクトを受け、それがジェンキンズの言っている参加型文化とか集合的知性と繋がりました(「Safecast or the Production of Collective Intelligence on Radiation Risks after 3.11 セーフキャスト 3.11後の放射線リスクについて集団知能を生み出す」)。渡部さんと北村さんは違う授業を受けられていたんですよね。
渡部
なんの授業だったかなあ。
北村
いま当時のメモを見てみたら、子供を兵士として徴用することに反対する組織「インビジブル・チルドレン」のビデオキャンペーンの話をしていたみたいです。たしかバイラルビデオを扱った授業だったと思います。
渡部
あー、なんとなく覚えてます。
 
――原著が出版されたのは2006年で、日本では長らく翻訳されてきませんでした。出版が決まったとき「ようやく読めるのか」とツイートしている人がいましたし先ほどお話いただいたように、北村さんもブログで「なんで翻訳が出ないんだろう」と書かれています。今まで日本の研究者は原書で参照されてきたんでしょうか?
渡部
私と北村さんがいた表象文化論の分野ではたぶん知られていなかったと思います。むしろ阿部さんのコミュニケーション学の分野だと知られていたんじゃないですかね。
阿部
そうですね。私はコミュニケーション学の中でもメディア・コミュニケーションについて勉強しているんですが、ジェンキンズに関して言えば、1990年代後半くらいからジェンキンズの師匠の一人であるジョン・フィスクって人が日本でも一時期ちょっとしたブームになったんです。1999年には『コンヴァージェンス・カルチャー』の一つ前に出たTextual Poachers(『テクスチュアル・ポーチャーズ』)を参照したテレビアニメのファンダムに関する面白い論考が日本語で出版されています(小林義寛「テレビ・アニメのメディアファンダム-魔女っ子アニメの世界」伊藤守・藤田真文編『テレビジョン・ポリフォニー-番組・視聴者分析の試み』世界思想社)。だからこれまで日本でジェンキンズが注目されていなかったというわけではないと思います。
渡部
実は私も「なんでみんなこの本のことを知っているんだろう」って不思議に思ったんですよね。英語で読めるコミュニケーション学の人たちが待っていたんですかね。
阿部
そうした先達たちが土壌を作られていたんだと思います。渡部さんがあとがきで書かれているようにもっと早く翻訳されるべきだったとも思うのですが、YouTubeができたのは2005年ですし、今よりも簡単に海外のテレビ番組にアクセスできなかった時代にこの本を翻訳するのは度胸が必要ですよね。ここ数年でようやくジェンキンズの本を翻訳できる環境が整ったのかなあと。とはいえ、実は韓国では2008年に翻訳されてるんですよね。「翻訳したんだよ」って話したら「いまさら?」って言われちゃいました(笑)。ジェンキンズはいま韓国のファン文化にも関心を寄せているようです。日本も奥深いファン文化があると思うんですけど。
渡部
そうですよねえ。
 

マーケティング、ネトウヨ研究にも使える概念

――本書の概要では、この分野における「基本書」「古典的名著」であると紹介していますが、なぜそのように言えるか、あらためて皆さんにお話しいただきたいです。
阿部
メディア・コミュニケーション論の立場からお話しますね。ファンダム研究についてはこれまでも定番の理論があるのですが、おそらくそこに加わる一冊なんだと思います。これからファンダム研究をする人は、参照すべき文献になるのかなと。
北村
おそらくアメリカではマーケティングをする人も読んでおくべき本としてすでに認められていると思います。あとジェンキンズの文章って難しくないので、研究者の教養に組み込まれるだけでなくもっと広く読まれているという意味でも、古典的になってきているのかなと思います。
 
――『コンヴァージェンス・カルチャー』については、北村さんの『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』や、倉橋耕平さんの『歴史修正主義とサブカルチャー: 90年代保守言説のメディア文化』(青弓社)、マーク・スタインバーグ『なぜ日本は<メディアミックスする国>なのか』(大塚英志=監修、中川譲=訳、KADOKAWA)などで言及されていますが、日本語で読める類書にあたるものってなにがあるのでしょうか?
渡部
最近だと『アニメの社会学―アニメファンとアニメ制作者たちの文化産業論』(ナカニシヤ出版)でしょうか。
阿部
『オタク的想像力のリミット: <歴史・空間・交流>から問う』(筑摩書房)もそうですね。もともとイェール大学出版から出ている本の翻訳ですが、ジェンキンズも授業で紹介していました。
渡部
日本にはファンを研究した本ってたくさんあるんですよね。例えば宝塚歌劇団のファン活動は有名ですが、川崎賢子さんの著作や、最近では宮本直美さんの『宝塚ファンの社会学』(青弓社)や東園子さんの『宝塚・やおい、愛の読み替え』(新曜社)などが挙げられます。アイドル関係で言うと辻泉さんの研究や、陳怡禎さんの『台湾ジャニーズファン研究』(青弓社)などが出ています。ジャニーズファンの研究や、大塚英志さんや東浩紀さんから派生したオタクについて本当に数多くの研究もそうです。ただ本書のように、ひとつメタのレベルでファンやファンダムの特性を議論しようとしているものは実はあまりないんじゃないかな、と。
あとネット右翼についての本も関連書になるでしょうね。ジェンキンズが原著を書いた時点ではそういう認識はなかったと思いますが、トランピズム、ポストトゥルースの時代になってくると、ある種のファンダムとしてネット右翼を研究するという意味で通じてくるものだと思います。
阿部
実際ティーパーティー運動(アメリカで2009年ごろに始まった保守派による大衆運動)が盛り上がっていたときもジェンキンズは積極的に発言していました。
 

「ファンの集合知が市民社会を成熟させる」は楽観的か

――本書に対する批判として考えられるのが、ジェンキンズがいうような、ポップカルチャーやデジタルテクノロジーを通じてみんなが繋がり、それによって集合的知性や連帯が生まれ、健全で成熟した市民社会を作っていく……という理論はいささか楽観的ではないかというものだと思うんです。皆さんならどのように再反論されますか?
渡部
うーん、なにから言うべきか悩むくらいたくさんあるんですが……まずジェンキンズが書いたものを読んでいくと、別にいい部分だけを選択的に取り上げているわけじゃないんです。ファンの積極的な振る舞いが結果的に悪い結果を引き起こすこともあるという指摘もしているんですね。ファンの参加が常に良いものだとはとらえていない。
北村
実はこの本を訳しているとき、『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』をみたのですが、それはそれは酷いもので、ショックを受けたんです。というのも、この作品はファンダムを意識したら、変なファンの意見に引っ張られて悪いものになったという感じがあったんです。いままでファンがコンテンツにおよぼすクリエイティブな力を信じて研究してきたのに、こんなことになるなんて……と自分の人生が崩れ落ちるような気持ちになりました。
一同
(笑)
渡部
確かに楽天的ではあるんですが、同時にリアリズムだとも思うんです。トランプ現象にせよ、排外主義にせよ、それをある意味ファンとしてサポートする市民がいるわけじゃないですか。彼らがトランプや排外主義を支持していることが問題だと捉え、これを解決しなければならないとしたら、彼らがそういう政治的判断に至るファン共同体の活動の現場をちゃんと知る必要がある。その上で、じゃあどうすればその現場に入っていって、どうやって問題を解決できるかを考える。結局それは、所得の再分配が重要だとか、労働組合を維持することが大事だとか、政治プロセスや選挙についての知識を学ばないといけないといった、本当に基本的なところに行きつく。なので、これって理想でもあり、リアリズムでもあると思うんです。
北村
たまに「新しいメディアを通じて繋がった人々が、これまでのものを破壊していく」みたいなことが言われます。でもそれって今に始まった話じゃないんですよね。マルティン・ルターが「九十五カ条の論題」を出さなかったらドイツ農民戦争(ルターの議論が引き金となった宗教改革を支持する人々が起こした大規模な農民反乱)は起きていませんから。印刷技術なんてなければよかった、本を燃やそう、といくら主張したって、みんな印刷を続けたわけじゃないですか。だからもうそれはそういうもので、良いところも悪いところも受け入れるしかないと思うんです。
阿部
ジェンキンズ自身がしばしば楽観的だと批判されがちですが、ジェンキンズが授業で自身の学問の姿勢について話していたことがあったんですね。彼にとって学問にはだいたい4つの段階がある。一つ目が一般に言う「分析」や「記述」、二つ目が「批評」や「批判」、三つ目が「代替案」の提示、そして四つ目が社会を変革するための「介入」だ、と。「自分は介入主義者である」……みたいなことをおっしゃってました。
ジェンキンズは、彼が言うところの二つ目にいる批判的な学者からは「メディアの恐ろしさに対して楽観的過ぎる」と言われがちです。しかしジェンキンズは、学問とは二つ目の段階に留まるのではなくて、三つ目、四つ目の段階に進むことが重要なんだって言うんですね。そして三つ目、四つ目の段階を渡部さんがおっしゃったようにリアリスティックなものにするためには、相手の事情、例えば産業界がどのようなものなのかとかをちゃんと理解しないといけない。メディアを上から一刀両断するのではなくて、なぜこういう行動をとるのか、この人はどういうことを考えているのかを知る必要があるし、そのためにネットワークを広げていく必要があるわけです。
だからこそ、いろんな人とご飯を食べたり、コミュニティに入ったりすることが大事で、それが世の中を変えていくのに重要なんだってことをジェンキンズは繰り返し話していました。そういう学問に対する姿勢の違いが、「楽観的」という批判に出ているのかなあと思います。
 
ーーもし皆さんが本書を批判するとしたらどのようにされますか?
阿部
『コンヴァージェンス・カルチャー』が書かれた時代とはメディア環境が大きく異なっている点は指摘できると思います。というのも実際にこの本が執筆されたのは2004年ですから、すでに17年経っているわけです。その間にインターネット環境が激変して、ファンが参加するスペースがアルゴリズムによって制御されるようになっている。例えばFacebookやTwitterにはすべての情報が流れてくるわけではないですよね。利用者が関心があるものなどが優先的に流れてくるようになっている。こうした変化に対して、『コンヴァージェンス・カルチャー』の議論がどこまで通用するのかなとは思います。
ただ、おそらく出版から20年後の2026年にはアップデートされたものが出版されるでしょうから、そこでジェンキンズが何を書くのかを楽しみにしたいですね。
北村
ウィキペディアンとして批判するなら、Wikipediaってジェンキンズがいう集合知の動員ができてないんですよね。オンラインのファンコミュニティって自然発生的に出てくるんですけど、リクルートしたいと思ってるファンが来るとは限らないんです。Wikipediaの場合、自ら書かなくてはいけないという特殊なコミュニティということもあって、集合知を形成してくれるはずのファンが参入してくれないケースが結構あるんです。その点については楽観的じゃないかと批判できる気はしています。
 

社会を変えるのはテクノロジーではない

――オードリー・タンさんに帯文を書いていただきましたが、最初に渡部さんがオードリーさんのお話をされたと記憶しています。なぜオードリーさんに書いていただきたかったのでしょうか?
渡部
確か私がしたのは、「オードリー・タンみたいな人が日本にいたらいいのに」って話でしたよね。
彼女はテクノロジーの人ですが、テクノロジーが社会を変えるとは考えていないですよね。彼女が台湾で公開したマスクの在庫データをローカルのハッカーたちが利用して、そのデータを地図上に表示できるようにした結果、台湾に住む人々が無駄に並ばなくてもマスクが手に入るようになったわけです。
これは、テクノロジーが社会を変えたとも言えますが、むしろテクノロジーを使って人々が社会を変えたんですよね。テクノロジーを信じているんじゃなくて、あくまでそれを使う人間を信じている。彼女は「Demos over Demics」という標語を掲げていますが、これは「パンデミックやインフォデミックを乗り越えるのは人々(デモス)」だという宣言であり、それが民主主義(デモクラシー)の理念なんですよね。そういう意味で、おそらくジェンキンズが考えるファンカルチャーの最良の部分を体現しているのがオードリー・タンなんだと思います。そんな人が日本にいたらいいのにと思ったんですが、思い浮かばなくて。彼女に帯文を書いてもらえたのは本当によかったです。
 
ーー最後に、どんな人にこの本を読んで欲しいでしょうか。
渡部
すべての日本語話者に読んで欲しいです。
一同
(笑)。
渡部
冗談ではなくて、ここまで話してきたように「コンヴァージェンス」という概念は、いわゆるファンに限った話ではなくて、政治に興味がある人もマーケティングに興味がある人にも引っかかるところがあると思うんです。そこから自分の主要な関心でない部分にも関心を広げてもらえたらうれしいと思って訳しました。
北村
私もファン研究に興味がある人だけではなくて、マーケティングやビジネス、政治をやっている人も手に取ってもらいたいです。あと井上信治クールジャパン戦略担当相と、山田太郎参議院議員にはぜひ読んで欲しいですね。
阿部
私もいろんな人に読んで欲しい。皆さんのお話を伺っていて、意外と歴史に関心のある人たちにとってもいろんなことが学べる本だということが分かって新鮮でした。誰もが何かのファンですから、誰にとってもなにか学べるところがあるはずだというのが私の考えです。
 
(進行・葛生知栄(晶文社)、構成・カネコアキラ)
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