「おっさん」のファン(倉橋耕平)

「おっさん」のファン(倉橋耕平)

【導入】

拙著『歴史修正主義とサブカルチャー 90年代保守言説のメディア文化』(青弓社、2018年)では、これまで政治運動のアクターやイデオロギー、歴史をめぐる事実の成否を主題としてきた「歴史修正主義(歴史否定論)」への研究に、メディア文化という視角を追加することで、「歴史修正主義」という特定の人たちの間で共有される「知」のあり方を描き出した。その際に、援用したのはヘンリー・ジェンキンズの『コンヴァージェンス・カルチャー』(晶文社、2021年。原著2006年)における「コンヴァージェンス・カルチャー」の「参加型文化」「集合的知性」というファン文化の枠組みであり、政治言説のメディア文化の消費者を「シリアスなファン」と捉えた。こうしたアプローチの変更は、政治言説を捉えることのみならず、現代文化において特定の言説や対象が、「文化生産者による評価」よりも「文化消費者による評価」を重視する態度へと変更され、その結果専門家(=文化生産者)の語る歴史よりも、「シリアスなファン」(=文化消費者)の間で好まれる言説(=歴史修正主義者の歴史)が大衆に膾炙・共有・強化されていったことを描き出した。
 
やや特殊な形でファン研究を利用したわけだが、この方法の利点は十分あったように思われた。しかし、分析視角としての「ファン」を持ち出すことに成功はしたものの、その「ファン」が実際にどのような人たちなのかは十分に検討できていない。では、どのようなファン像があり、それをどう考えることができるのか。
 
この話題提供では、右派メディア文化のファン層を収集できたデータから特定し、それらをTransformative Works and Culturesに掲載されている論文を参照しつつ、ファン研究のなかからどのようなことが言えるのか検討してみたい。
 

【右派メディア文化のファン層】

すでに若手いることをまとめると、Newsweek2018年10月30日号「特集:ケント・ギルバート現象」に掲載されたケント・ギルバートの著書『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』の購買POS(Point of Sales)データを見ると、圧倒的に男性に偏り、平均年齢59.69歳、最頻値68歳であったことがわかる。同様にNewsweek2019年6月4日号「特集:百田現象」でも、『日本国紀』の消費者は圧倒的に男性が多く、平均年齢53.05歳、最頻値51歳であることがわかっている。また、共著『ネット右翼とは何か』(青弓社、2019年)の永吉希久子「ネット右翼とは誰か―ネット右翼の規定要因」では、ネット右翼もオンライ排外主義者も50代男性がボリュームゾーンであることが指摘されている。
 
すなわち、右派メディア文化のファン層は、中高年男性と言って差し支えない。しかし、このことは、単純に右派メディア文化だけのこととはいいづらいところもある。実際、現在日本の平均年齢も中央値も48歳くらいで、決して若くない。だが、男性に偏っているというのは、右派メディア文化のファン層の特徴と言えるだろう。以上から、この分野のファンは「おっさん」であると言える。
 
そうした状況に合わせるように今年(2023年)2冊の新書が登場した。1つは鈴木大介の『ネット右翼になった父』(講談社現代新書)、もう1つは古谷経衡の『シニア右翼』(中公新書クラレ)である。前者、ネットスラング(ヘイト)を口にし、「嫌韓嫌中」動画を流し続けた父にたいする詳細な分析である。鈴木は晩年の父を「ネット右翼」と一括りにした記事を書いたが、詳細に分析すると保守的傾向はなく、左翼が嫌いになったノンポリ学生だったこと、「嫌韓嫌中」は、実際にあった仕事上のトラブルから起きたこと、弱者(生活保護者、シングルマザーなど)の実態を知らずに文句を言っていたことなどがわかる。他方、古谷の指摘は右派運動のなかにいた人間の経験から語られたものであり、そもそも高齢化しており、保守系/右派系言論人の熱心なファンの彼らだが、本は積読しているだけで、高齢でネットリテラシーが低いため、動画の「一撃」で妙な言説に集中するという姿が描き出されている。いずれにしても、右派メディア文化を支える(あるいは支えてしまっている)層が、決して若くない男性たちであることが両著作からも明確に見えてくるところである。
 

【TWC論文との関連】

中高年男性のファンの活動を先行研究の中で探すために、「generation(世代)」「old fan(オールドファン)」「man / men(男性)」など関連しそうな語を用いてTransformative Works and Culturesの論文を検索したところ、やはり直接的に「中高年男性ファン=おっさんファン」を分析するものは(さすがに)見当たらなかった。その理由として考えられる指摘は、Line Nybro Petersen. ‘"The florals": Female fans over 50 in the "Sherlock" fandom’(TWC, Vol. 23 (2017))で指摘されているように、ファン文化そのものが特定の年齢の人にとっては、自分が参加するには「若者文化」すぎる、という主観があるということとも相待って、研究対象としてのファン文化そのものが「若者文化」であることに起因するところがあるだろう。
 
具体的に、今回の先行研究検索で検討できるものは、①ファンの世代差/世代交代についてのもの、②ファンの主観的年齢に関するもの、と2つに分けることができるかと思われた。
 
まず①「ファンの世代差/世代交代」については、規範をめぐるものがある。古いタイプのファンは贈与文化的で秘密主義的な情報の活用を行うのに対して、新しいファンは無料文化から商品化へシフトを起こしており、それによるコンフリクト感が生じることに関する指摘がある。また、同論文は、Henry Jenkinsの「ミレニアル世代以降の政治の顕著な特徴は、ポップカルチャーの参照が政治的レトリックや運動実践を形成する方法である」というファン文化への(ある種)素朴な肯定的評価を引き継ぎ、言い換えれば、ファンダムの参加はアクティヴィズムを促すかもしれないと指摘しているところがある(Brianna Dym, Casey Fiesler. “Generations, migrations, and the future of fandom's private spaces(シンポジウム)” Transformative Works and Cultures, no. 28)。
 
確かに、日本のインターネット上のファン文化にしても、当初の共有文化/「嫌儲」文化は、かつての贈与的なものが働いていた空間を模しているようにも思えるところがあるが、00年代に入ると同時に管理され、商品化されることをよしとする空間に変化した。
 
また、古いファンダムから新しいファンダムの入れ替えが起こる際に各プラットフォームの語彙の選択に統計的に有意な違いがあることが報告されており、ファンのコミュニケーション実践の一部としてのミームやGIFなどの使用を通じて、この年齢層の若さを感じるための空間を提供していることが指摘されている(Lily Winterwood. “Discourse is the new wank: A reflection on linguistic change in fandom(シンポジウム)” Transformative Works and Cultures, no. 27)
 
他方、②ファンの主観的年齢に関するものについて。上記のLine Nybro Petersenは、「若者文化」であることが多いファン文化のオールドファンに焦点を当て、シャーロック・ホームズの50歳以上の女性ファンの主観的年齢に関心を寄せる。同ファンたち諸個人が年齢によって自分自身を定義することに「積極的に抵抗」する傾向は、ソーシャルメディアの出現によって加速されたと主張している。
 

【ここから考えたこと】

以上を参照しながら、中高年男性の右派メディア文化ファンについて、少なくともいくつかのことが考えられるだろう。まず、ファンダムへの参加とアクティヴィズムには、「世代交代」の萌芽を見ることもできるかもしれない。もちろん、右派のアクティヴィズムである。ウトロ放火犯(2021年、22歳)、米山隆一名誉毀損の黒瀬深(2021年、20代)だった(これに加えて、岸田演説襲撃も???(2023年24歳))。これらは過激なものの一部ではあり、現時点で何か分析ができることではないが、今後注視しておく必要があるだろう。
 
他方、ファンダムの「世代交代」が行われていないのではないか、とも考えることができる。それは、TWCの論文の中にあったように、各プラットフォームの語彙の選択というものは右派メディア文化のなかではこの30年間起こっていない。自虐史観、WGIP(ウォー・ギルト(・インフォメーション)・プログラム)、押し付け憲法、行き過ぎた性教育、歴史戦など、定型句はこのそんなに変化がないし、プラットフォーム間で異なるということもない。
 
だとすると、いくつかの仮説をもって中高年男性の右派メディア文化の動きについて考えなければならないところがある。これまでの研究では、「主観的年齢」というのを考慮に入れた指摘は管見の限り見当たらない。しかし、この視座をいまの中高年男性のネトウヨと若者による過激な「アクティヴィズム」を考えると、次の2点のことも仮説として考えることができる。
 
〈もしかしてA.〉ネトウヨの中高年男性たち=おっさんたちは「自分は周りよりも若い、若い奴らの言葉を知っている、まだ頭はイケてる(知識欲や論破欲?)」として、主観的な年齢を若く見積もっているのではないか。つまり、ウェブそれ自体がいまだ「若者文化」であり(実際には全然そんなことはない)、そこで用いられるスラングや流行は、「若者ことば」であり、それについていける自分は若いかもしれない、という認識的な誤謬があるかもしれない、ということである。
 
〈もしかしてB .〉ネトウヨの中高年男性たち=おっさんたちも「ネトウヨは若い」というこれまでの俗説に騙されている(勘違いしている?)のではないか。つまり、主観的年齢や自分自身への定義に対して「積極的に抵抗」する傾向がファン文化に見られるのであれば、よりファンダムを固めることに積極的になるのではないか。このことは上記〈もしかしてA.〉と合わせると、かつての若者文化がこの30年間継続し続けた結果、アクターが中高年化した、とうことも考えられる。
 

【おわりに】

以上は、あくまで仮説であり、現在のところ検証のしようのないものである。しかし、その「ファン」が実際にどのような人たちなのかを問うとき、こうした視点が必要になるのではないかと思い、問題提起・話題提供の対象とした次第である。
 
最後に、同様にTWCの論文検索の中から、Lucy Miller“Wolfenstein II and MAGA as fandom” Transformative Works and Cultures, no. 32.の指摘が示唆に富むので言及しておきたい。同論文は、こう指摘する。
ファンダムは、政治的関与と行動に関する代替的な視点を提供する。倫理的な枠組みや様式は、同じ党派的なイデオロギーに振り回されることなく、人々がどのように統一した行動を取ることができるかを理解するのに役立つ。(……)党派性とファンダムの違いを認識することで、政治的敵対者に関わるための新たな戦略(ラベルの貼付をより徹底させる、倫理的な様式を破壊する等)が可能になる。
今回、ファンダムにおける「世代(交代)」や「主観的年齢」に関する論文をヒントに中高年男性の右派メディア文化を検討してみたわけだが、イデオロギーで分類される党派性ではなく、中高年男性のファンというものの「統一した行動」に着目する必要が見えてくる。が、それは今後の課題としておきたい。
 
ファン研究グループ